車を取りに尾張経由で駿府
家で新しい車を購入したのだが、その車両が静岡市のディーラーにあったので、取りに行ってきた。
まずは特急で尾張名古屋まで出て、出汁好きの義務としてきしめんを食べた。旨い。三河から尾張辺りの出汁は好みだなあ。関東みたいな濃口醤油ドバドバ王国ではない。「出汁を食わせる」って感じだ。特に鰹節の香りが強いかな?私は家でよくうどんの出汁を作るので、勉強になりました。
名古屋からは新幹線で駿府へ。特急に比べたらすこぶる快適だ。乗り心地がまるで違う。椅子の作りも、凄く良いとはいい難いが、特急の物より遥かにましだ。
駿府に着いてからは路線バスに乗り、東海道歩きの時にも寄った安倍川餅屋へ。 車を受け取ってから車で餅屋へ行っても良いのだが、敢えて不便で遅い移動手段を取るのも、またおつなものなのである。自分で運転してたら、街の景色をゆっくり見られないし、街の空気にも触れられないしね。この選択のお陰で、 バスを降りてから、すごく可愛い浴衣姿の女の子と一言交わす機会を得た。ご褒美だねえ。ふふ。
車を受け取ってから、下道で清水の商店街へ。ここも、東海道歩きの時に寄った所。乾物屋さんに寄ってから、今回絶対に再訪したいと思っていた喫茶店へ。
このお店は老夫婦(と思しき)お二人が経営されている、いかにも昭和な喫茶店なのだ。ケーキが100~200円という衝撃特価で売られている。前回はカボチャケーキを食べたので、今回はくるみロールケーキ(200円)にした。美味しかった。ヨーロッパで修行してきたようなシェフがいる洋菓子店の超絶丁寧に作られたロールケーキとはまた違った美味しさがある。気軽におやつとして食せる家庭の味。そこが良い。店内のテレビでは巨人戦が映っていたので、週6日欠かさずプロ野球ニュース(CSフジテレビ)を観ている知識を活かしてお店の人との会話を楽しんだ。毎度毎度思うことなのだが、これが小さなお店の良いところなんだよな。会話がある。昨今跋扈する、システム重視で人柄が介在しない客商売は本当に好かぬ。
また静岡に行きたいなー。小さなお店が絶滅する前に。
スピッツのライブに行ってきた
スピッツが信州でライブを2日間やってくれた。小学6年生の頃からスピッツを聴いているわたくし、 2日間とも観覧してきた。今回のライブは 結成30周年記念ということで、90年代前半のメジャーデビュー当初の曲から今年リリースしたばかりの曲まで、満遍なく演奏してくれた。
私にとって、スピッツの何が良いかというと...草野正宗さんの書く不思議な曲(歌謡曲っぽかったり洋楽っぽかったり長調なのか短調なのか謎だったり)と繊細で感受性が強くて傷つきやすくてひねくれていて劣等感を抱えつつも前向きさは捨てていない男の心情を恥ずかしげもなく晒す歌詞がまず良く、前には出てこないけど素晴らしく安定しており歌を引き立てるオカズを織り込むドラムが美しく、ボーカルとギターの間を縫い合わせつつ自身もメロディーを奏でるようなベースは個性的で、曲の色を決定付ける印象的なアルペジオを奏でるギターも欠かせない鍵で、メンバー皆が未だに音楽に対する情熱を持ち続けており、ファンに対して誠実で、金に目がくらんでいない、そんな彼らが好きなのである。
正直なところ、2002年からプロデューサーがずっと同じなので個人的にはマンネリ感を覚えているのだけれども、これからもそっと応援し続けたい。
「言論の許容範囲が狭すぎる」 言い得て妙
Newsweekより引用
スワローズ戦の3塁席で僕が失った表現の自由 - パトリック・ハーラン パックンのちょっとマジメな話
言いたいことは非常によくわかる。私はどのチームのファンでもなく、球場に行ったときは、選手の良いプレーにはチームの区別なく拍手を送りたい(ヘボいプレーには野次を飛ばしたい)。
日本では「同じ人間」を生産するシステムが出来上がってる。パックンの言うように、日本の学校や企業は、生徒・従業員に同じ格好をさせて、同じ勉強をさせて、同じ様な能力を持った人間を作っている。
首都圏に住んでいた頃は、機械的で融通が利かなくて人間味がない機械人間だらけだと感じることがよくあった。それは私にとって、かなりつまらないことだった(ま、農村部や小さな商業都市だって「出る杭は打たれる」世界だけど)。
何せ人間の多様性が足りないんだよなぁ、この島国は。いつからこうなった?武家社会のせい?明治維新から?太平洋戦争から?
独裁ならず
どうやら安倍独裁政権は成立しない模様だ。安部首相退陣のカウントダウンが始まっている。
しかし、都議選の様子を見ると、民主党に政権交代した頃を思い出す。あれは一瞬の祭りの様に終わってしまい、その後で安倍独裁寸前政権が誕生することになった。自民党を選んだのは国民なんだよな。安倍を独裁寸前まで行かせた責任は国民にもある。今回も二の舞にならなんだらいいけど(いや、三の舞、五の舞...百の舞くらいかも)。日本人は賢くないからね。
それにしても、前川さんが出てきてくれていなかったら、本当に独裁政権が成立していたかもしれない。そんな国を民主主義国家とは呼び難い。とても情けない。アメリカが輝いて見えてしまう。あそこほ政権に公然と逆らうことが許容されている。なんだかんだ大きな問題はあるけれど、アメリカはまだ多様性と民主主義のある国なんだろうなぁ。少なくとも日本よりは。
棄民
読んでいると腸が煮えくり返ってくる本。3.11の原発ボカンで放射能汚染されたものの、国から避難勧告される程の放射線量は記録されず、しかし子供達が原発事故前と同じ様な生活をしていたら簡単に被爆して甲状腺に異常をきたしてしまう様な地点も存在する自治体であった(ある)福島県伊達市で行われてきた棄民政策と、そこで暮らす人々のルポ。
何に腹が立つかというと、伊達市長をはじめとした伊達市役所と福島県庁と原発の取り巻き共が、人々(特に子供達)の健康について全く心を砕かず、原発事故の被害を小さく見せかける為、そして、市の人口を減らさない為に、あれやこれや汚い策を打って放射能汚染による人体への影響を過小に評価することだ。放射線量が高い地点に住んでいる子供達が、「どうせ自分はもう結婚なんてできない」と自暴自棄になってさえいるのに。
更に悲しいのが、最初は子供を持つ親同士で連帯して市への抗議を行っていたのに、途中から、市の政策により、放射能汚染の補償をされる世帯とされない世帯とに分断されてしまうことになり、補償された世帯の親達が、補償されない世帯の親達の悪口を言ったり、抗議活動の足を引っ張ったりする様になってしまうこと。この、補償された親達の掌の返し方は、非常に人間らしいなあと思った。
本書の中には、被害者達に救いの手を差し伸べてくれる人も登場するものの、総じて、人間の醜さ、冷たさ、利己性を改めて見せ付けられる内容だった。政府や役人は勿論のこと、一般市民もまるで信用できない。信ずるに値しない、小さな生き物だ。