「言論の許容範囲が狭すぎる」 言い得て妙

Newsweekより引用

 

 

スワローズ戦の3塁席で僕が失った表現の自由 - パトリック・ハーラン パックンのちょっとマジメな話

 

神宮球場で「相手チームの応援は禁止」というルールを守った日、日本式コミュニケーションの落とし穴に改めて気付いてしまった――>

ヤクルトファンはつらいよ。

今まであまり公表したことはないが、僕はひそかにヤクルトスワローズを応援している。理由は、彼らの屈しない勇敢な野球精神に惚れたってところ......というより、スタジアムがわが家の近くにあるという都合の良さに尽きるのかもしれないけど。

でも、20年も連れ合えば、情が移ってしまう吸引力がヤクルトにはある。今は大好き。

ヤクルトファンがつらいのは間違いないが、それは負け続けるからではない。確かに、「都民ワースト」と巧みに揶揄されている今年は特にひどいが、以前から「負ける」ことにはそれなりに免疫ができている。同じヤクルトファンの村上春樹さんもエッセイに書いているが、「まあ人生、負けることに馴れておくのも大事だから」という思いで観戦する同志が多い。

逆に、弱くても応援するのがヤクルトファンのプライドだ。先日、神宮で聞いた私設応援団長の言葉がそれを表していた――「勝っているチームを快適に応援するのは他の球団でできること! 雨に濡れながら、負けているチームを一生懸命応援するのはヤクルトファンの宿命だ! これからだぜ! 声を出そう!」。その直後、ヤクルトの打線は三者凡退。試合もぼろ負け。


実のところ、ヤクルトファンの僕にとってつらいのは負けることよりも、ホームゲームだというのに、人気チームと対戦するときのアウェイ感が半端ないところ。

以前、阪神戦の日、いつも通り当日券を買おうと「指定席を1枚ください」と言ったら、販売員が「申し訳ございません。ヤクルト側しか残っていません」と謝ってくれた。いやいや、ここは神宮球場だし。僕はヤクルトの帽子をかぶってるっていうのに、あなたはタイガースファン前提で話すんだね。試合開始前からデッドボールを食らった気分だった。

そんな仕打ちを受けたってへこたれない。先月、家族で日本ハムとの交流戦を見に行ったとき、うれしいことが起きた。ヤクルト側が売り切れだった。「とうとうスワローズブームが来たか?」と微笑みながら、喜んで3塁側の席に座ることにした。

しかし、またそこで悲劇だ。買った後に気づいたが、チケットの表面に「こちらの座席で相手チームの応援、応援グッズの着用、使用は禁止です」と書いてある。「まあ、変なルールだけど、そもそも日ハムの応援をしようと思ってなかったからいいか」と思った。

しかし、席に着いた瞬間に分かったのは、この場合の「相手チーム」はヤクルトのことだった。つまり神宮球場にいながらも、ホーム・チームの応援はできないことになる。息子の「山田哲人」コールを止めるのは大変だった。

ちなみに、上で触れた村上春樹さんのエッセイの題名は皮肉にも「球場に行って、ホーム・チームを応援しよう」なのだ。
 
(さて、もちろん野球の話だけでニューズウィークのコラムを終わらせるわけにはいかない。これからが本題のプレーボールだ。)



3塁側のビジター応援席に座ることで表現の自由を失った僕は、いつもよりも悔しい思いで試合を見始めた。でもこの思いは初めてではない。アメリカ育ちの僕が日本で暮らしながら、定期的に経験する種類のものなのだ。超大好きな国だが、言論の許容範囲が狭すぎるとよく感じる。

幼稚園のときから子供たちは全員同じ帽子、体育着、上履きを身に着ける。受験勉強で同じ情報を与えられ、試験で同じ答えを求められる。成人すると同じリクルートスーツを着て、就活マニュアルで同じ模範解答を参考にする。入社式の写真を見ると、企業側も同じ服装、同じ髪型の、同じような人を採用している。

球場でも同様の現象が起きるようだ。アメリカみたいに適当に席を選び、好きな言葉と自分のタイミングで応援したり、野次ったりはしない。日本では、自分と同じチームのファンに囲まれるように座り、周りと同じコールを同じタイミングで大合唱する。最初は驚いたが、社会の傾向を見れば、これは当然の結果かもしれない。実は慣れると楽しいし。だいたいのコールは普通に覚えてるよ。Go, Go Swallows!



そう。僕は自分の順応性の高さを自負している。周りに合わせることができるからこそ、低空飛行で日本の芸能界で20年も飛び続けることができていると、十分自覚しているのだ。だから、その日はもちろん球場のルールを守った。しかも、回りにあわせて少し日ハムを応援してみたら、それなりに楽しかった。日ハムが勝ったし。でも、やはり違和感は払拭できない。応援したチームが勝つことに慣れていないからかもしれないけどね。

いや、それだけではないかな。僕の持論だが、学校も企業も政府も目標に掲げている「想像力、発想力、コミュニケーション能力アップ」を実現したいんだったら、普段から、そして子供の頃から、もっと国民に自由な行動と表現をさせるようにしないといけない。

国民が自ら、自分と違った意見の持ち主を近くに置くようにしないといけないとも思う。教室でも会議でも、そして球場でも、見解や価値観のダイバーシティを志すことが大事。相手チームの応援を禁じるのではなく、むろん促すべきではないか。フィールドだけではなく、スタンドでもぜひ交流戦にしよう。


 

 言いたいことは非常によくわかる。私はどのチームのファンでもなく、球場に行ったときは、選手の良いプレーにはチームの区別なく拍手を送りたい(ヘボいプレーには野次を飛ばしたい)。

 

 日本では「同じ人間」を生産するシステムが出来上がってる。パックンの言うように、日本の学校や企業は、生徒・従業員に同じ格好をさせて、同じ勉強をさせて、同じ様な能力を持った人間を作っている。

 首都圏に住んでいた頃は、機械的で融通が利かなくて人間味がない機械人間だらけだと感じることがよくあった。それは私にとって、かなりつまらないことだった(ま、農村部や小さな商業都市だって「出る杭は打たれる」世界だけど)。

 

 何せ人間の多様性が足りないんだよなぁ、この島国は。いつからこうなった?武家社会のせい?明治維新から?太平洋戦争から?